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常に戦士のままで


by Iulianus
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B年待降節第一主日

 あけましておめでとうございます。この日から典礼的には新しい年が始まる。待降節は、キリストの降誕を迎えるための準備期間。で、この日の福音はマルコ福音書第13章33節から37節。
 「目を覚ましていなさい」という言葉が今日の福音のキーワードだが、実は昨晩はまったくよくねられなかったので、寝たくても寝られないつらさが分からんのかとか毒づきたくなる。まぁ、冗談はさておき、救い主がいつ来るか分からないから、それに対する準備をしろということか。終末の時もいつ来るか分からない、誕生の時もいつか分からない。うーん、人騒がせなことだ。それもそのはずで、この日の福音の文脈は終末の文脈におかれている。だから、それは仕方のないことだし、あえて言えば、キリストの降誕も再臨も本質的にはそうかわりのないことだと言うことでもあろう。
 ところで、この日の第一朗読と第二朗読は実に対照的にみえる。第一朗読のイザヤでは、裁く神としての側面が強く出ている。しかし、第二朗読の『コリントの信徒への手紙』では神の子に変えられた人間が描かれている。ただ、第一朗読の最後で「主よ、あなたは我らの父。/私たちは粘土、あなたは陶工/私たちは皆、あなたの御手の業」とある。
 我々は神の手によって変えられ、神の子になるということだ。まぁ、神によってかえられるよりも、自分自身で変わるようになれば本当はもっとよいのだろうが、まだそこまで人間は成熟していないのかもしれない。それならば、地上に現れた神自身である、神の子イエスに目を向けることも必要であろう。
 キリスト教のある意味で専売特許の一つは、不可視であり、人間が近づくこともできなような絶対的な神が人間となって、この地上で生きたということである。我々が神の子になるということはこのイエスにならって生きていくということである。そして、神が自ら人間になったということは、人間にその可能性があるから、いや確かにいまの人間は相当に悪く、どうしようもない存在かもしれない、しかし、爪先ほどでも可能性があるから、神が人間となることで一つの模範を示し、そのように人間を導いていこうということである。
 だから、神がこの地上に残されたそのしるし、あるいはその足跡に人間は気づいていかなければならない。この意味で「目を覚ます」ということをとらえていった方がよいだろう。つまり、気づいていく、気をつけていくということである。
 イエスの誕生を、今か今かと単に待っているのではなく、イエスがこの地上で行なったことを自分の生き方に重ねあわせ、反省の糧としていく方が、遥かにイエスの誕生を待ち望む態度にふさわしい。そして、そのような人が次第に神の子に近づいていく。つまり、自分自身の中に神の子が誕生し、神の子に次第に変えられていくということではないか。
 キリストの降誕はこの意味で12月25日ではない。自分自身のうちに神の子が生まれて、神の子になっていくところにある。
by iulianus | 2005-11-23 18:12 | メディタシオン